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フィリピンでの人権学習を終えて

小川 理恵(京都女子大学 現代社会学部3回生)

全体を通して
 フィピンでの人権学習は、普段の生活の中で体験できないことばかりで、自分にとってはとても新鮮で有意義なものだったと思う。日本とは違う日常生活の中で、違う価値観に触れることによって、自分がどこまで成長できたのかはわからないが(もしかしたら成長してないかもしれない)、本当に行ってよかったと思う。

人権
 7月31日に人権委員会に、8月2日に教育省に、8月2日に公立の高校に、訪問した。フィリピンでの人権に対する考えは日本のそれとまったく別で、明確なものであったし、人権自体に対する思いいれも大きなものであった。
 人権委員会は87年の憲法で制定されたもので、5人の委員がおり(そのうち1人が空席だった)、透明性のある組織で、政治家による介入の余地もほとんどなく、財政的にも国家予算の中でも特別に組まれ、政府から独立した機関である。政治家の介入ができないというのは、なるほど、人権というものが政治の道具にならないように、また人権委員会そのものが政治とは別のところにあることを示している。
 日本の国家機関の中で、政治家が介入できないような組織はあるのだろうか。そうはっきりいえるものはないのではないかと思う。
 ただ、フィリピン人権委員会には、これからもしていかなければならない課題がたくさんあると思ったし、どんどん現場に近づくにつれ、人権委員会の方針や考えなどがすべてが浸透しているわけではないのではと思った。
 一方、日本には独立した人権機関がないのはマルコス政権のような独裁的な国家権力による人権侵害がなかったからであろうか。しかし、日本においても人権保障というものは求められていると思う。
 教育省は人権教育のカリキュラムづくりを担っている。もちろん、教育省が直接生徒たちに人権教育を行うのではなく、同省の地域スーパーバイザーに研修を行ったり、学校での人権教育を監視したり、校長に研修を行うことを通じて、先生たちへの研修を間接的に行ったりしている。
 また、人権をどう教えていくのか、ということに関するプログラムを開発するなども行っている。私が特に感心したのは、「人権」という授業科目がなく、他の科目の中に統合されていることである。それによって人権に接する機会、時間は確実に増えるだろうし、意識しなくても人権に接することができる。しかし、科目によっては統合させることはかなり難しいようであるが。
 それから、経済的理由などで途中でドロップアウトする生徒が多いが、その生徒たちは人権について学べないままでいることが予想される。そういう生徒たちこそ、自分の権利というものを学ぶために人権学習は必要なのではないだろうか。ドロップアウトする生徒たちへの人権学習がどうなっているのか、そこに疑問が残った。保護者たちにセミナーを開くなどをしても、子どもが働いていたりすると、学校による人権学習にその子どもたちが参加することは不可能なのではないかと思う。
 実際に人権学習が行われている高校の授業を見学した時に感じたことは日本の生徒との差である。まず、自分の考えというものをしっかり持っており、自己主張ができる。そのことの差がとても明確に表れていたように思う。これは、人権学習の成果なのか、フィリピンの教育全体による成果なのかわからないが。
 また、生徒の個性も尊重されており、画一化されておらず、授業自体がとても面白いものだったのではないかと思う(英語がわからなかったがために、その面白さの半分くらいしか理解できなかったように思う)。見学したのは価値教育と言う授業で、日本では道徳の授業に当たるのではないかと思ったが、どれも、日本でも真剣に考えるべきテーマばかりで、言葉を知っていても意味を知らない、それに対する自分の意見がないのが日本での道徳教育との差になるのではないかと思う。

パラリーガル
 日本ではパラリーガルの存在自体があまり知られていない(私は法律系のゼミを取っていたこともあり、その存在は知っていたが、実態は知らなかった)。8月1日に訪れたサリガンでは、法律をつかって労働者、農民、都市貧困層、女性が社会の中で権利を行使していけるために活動していた。そのなかで特にパラリーガルの養成と法律の大衆化である。
 確かに、日本ではさまざまな政策が提言される時、そこに民の希望が直接的に反映されているとはあまりいえない。現状のデータを分析した上で官や、議員たちによって提言されているという印象が強い。そして、法律は法律専門家たち(弁護士、司法書士、裁判官など)が理解し、扱うもので、困った時はその人たちに相談に行くということが普通になっているように感じる。
 しかし、法律は生活にかなり密着し、生活の中でかなりの事柄を決めており、生活をしていく上で理解していかなければならないものだと感じた。「法律を大衆のものに」という考えは、かなり驚きもしたし、納得もした。生活に密着しているものだからこそ、理解し、自分のものにして、行政に提言していかなければならないのではないかと。「権利」という言葉がよくこのツアーの中で使われていたと思うが、「権利」を主張するためには自分に何が与えられているかを知ることも大切だと身にしみてわかった。私はサリガンのような組織が民衆に法律を理解させるよう活動していくことは大切だし、そのことによって人民が行政に対して意見を述べられるようになれば、社会がもっと民衆にとってすごしやすいものになるのではないかと思う。

パヤタス
 驚いたのはその衛生環境である。道ひとつにしても、犬の糞尿が点々とし、日本の田舎道の犬の糞に眉をしかめていたのが実にかわいらしく考えられたほどである。そして、子どもの多さにも驚きを隠せなかった。また、水の問題でも眉をひそめる部分が多かった。
 井戸から水を引いても飲料水としては適さず、苦しい経済状況の中、1コンテナー(6リットル)が5ペソのものをいくつも購入して生活していることは貧しい人ほど、そういう状況に陥らないようになぜできないのか、疑問に思った。また、マニラの水道局によって水道が使えるようにパイプを通してもらえたとしても、裕福な人が優先で、1日30分しか出ず、朝2時に起きて並んでいるということを聞いて、不公平に感じた(そのあとホテルでシャワーを浴びた時、水はやはりとめどなくでてきた)。
 そして、各家庭の経済状況を聞き、子どもが労働力と見なされ都市貧困層の就学状況が悪いのも理解できた。また、ごみの山で働く子ども達を見て、こうしなければならない状況が痛々しく感じられた。しかし、その子ども達は他の状況など知らずに成長して、働いていき、またそれが当たり前だと思って子どもに伝えていくのかと思うと、連鎖している鎖を断ち切るのは本当に難しいと思った。
 ここに関しては本当に衝撃ばかりで、「どうしたらいい」とか言えない。ただ、行政の政策により少しずつ改善していくしかないのではないかと思う。そして、うまくまとめることもできない。ただ、「こういう人たちもいる、自分にできることは?」という感じである。