ヒューライツ大阪は
国際人権情報の
交流ハブをめざします
スタディツアーを通して
指原 恵美子(教員)
今、手元に一冊の小さなメモ帳がある。フィリピンに出かける前に感じたことを日記に書こうと買い求めたものだ。はりきって買ったメモ帳には、「わからない」「?」ばかりで結局すっきりとした答を見いだせないまま帰ってきたことがわかる。消化不良の連続を起こすほど今回の旅は中身が濃すぎた。たくさんの「?」が自分の中で解決できないことほどつらいことはない。物事はすぐに何でも腑に落ちる方が稀なことはわかってはいるが貪欲な性分で吸収したがっていた。
岡山県にあるハンセン病療養施設「愛生園」で元ハンセン病患者の方々から話をうかがった時のことを思い出す。島にきて約半世紀、差別と偏見の目の中で人生の大半を小さな島で過ごすしかなかった話を聞いた。こんなに小さな島の中でしか生きる道が残されていなかったこと、そんな人生の苦しみを味わってもなお、人を包み込むその優しさはどこからくるものなのかわからなかった。
想像を超えた現実や人の生き方を目の当たりにするとそれを自分自身でどうとらえていけばいいかを考えることがある。愛生園でもそうであったが、今回フィリピンでは見るもの、聞くものすべてが私にそのことを突きつけてきた。冒頭の「?」だらけの日記はその証かもしれない。
「フィリピン」という国の名は小さな頃から祖父から聞いてきた。お酒がはいると必ず戦時中フィリピンで過ごした日々のことを話しだす。ある時は今どうなっているか見たいと言い、ある時は「もうフィリピンはええ。(行きたくない)」と言う。
今回、このツアーに参加したのはそんなフィリピンという国を見てみたいという単純な思いと、「人権教育」に必要性を感じてはいるが、自分の中でどう位置づけし、授業を展開していけばいいかと行き詰まってもいた私に何かしらヒントをくれそうなプログラムに惹かれてのことだった。
「人権教育」という視点からは、私たちが持つ「権利」ということを考えさせられた。フィリピンの人権教育プログラムは、具体的な権利の学習や法的権利の学習が重視されている。
パキサマ(全国農民組合連盟)を訪れた際、「人権とは?」の質問に即座に「農民にとっては土地の権利、食料の権利」とコーディネーターであるイベット・ロペスさんは返答した。「難しい質問だなぁ」と感じていただけにその即答ぶりに驚いた。私は自分が持つ「権利」についての意識が稀薄であることを改めて実感した。
フィリピンでは自分たちの生活の向上や改善と、法によって明確化された権利とが強く結びついて組織やプログラムが組まれていた。
学校訪問の際にもそのことを感じた。生徒たちは活き活きと権利を主張する「力」と「スキル」を発揮していた。私は人権の授業を行う際、課題を持った生徒が下を向くことがないような授業をしよう、自分を語り、受容しあう関係を作ろうとしてきた。しかし、中にはどこか他人ごとの感をまぬがれていないような生徒たちもいた。
フィリピンの人権教育は、まず自分たちの権利を知り、行使することが誰のためでもなく、自分たち自身のためであることを理解させようとしていた。自分の生きる力を高めるために絶対に必要なことだという視点がある。だからこそ生徒は積極的に楽しんで授業を受けていたのであろう。
日本ではどうしても「権利」というと「そこに当然あるもの」であって、日常意識化されることは少ないように思う。そんな中、この自分たちの「権利」を見つめることから始まる人権教育という視点とその成果に実際に触れたことは大きな収穫であった。
フィリピン訪問中、最も強く感じたことがある。今もその時の思いが消えることはない。
学校訪問で、そばにいた生徒が手紙の束を渡してきた。手紙は、あなたの国で働く海外フィリピン人労働者(OFW)は私たちの父母きょうだいであり、彼ら・彼女らがいなくてさびしく思うが、彼らが私たちの暮らしを支えている。彼らに正義とシェルターを与えて欲しいという内容だった。
私はこの手紙の束を読んだ途端、一人のフィリピン人男性のことを思いだし、心が熱くなっていた。フィリピンに来る前、日本に来て暮らしている外国の方々に日本語を教えようというボランティア講習に参加した。そこで出会ったのが彼だった。私たちのグループは学んだ日本語教授法を必死に彼に教えた。私は日本語を教えることに夢中で彼の国やバックグラウンドに思いをはせる余裕がなく時間はすぎていた。そしてフィリピンにやって来て、目の前にいる生徒の手紙を読んだ。その時、私の中で日本に出稼ぎにきていた彼とフィリピンで待っている子どもたちが線と線で結びついた。そして私は線と線との交差点にいる自分自身に気づいた。改めてフィリピンという国が自分の中に入り込んできた瞬間だった。
その時から、フィリピンという国を知りたいと思った。それと同時に自分の理解を超えたこの国の現実を直視するのが辛くなっていったのも確かである。パヤタス地区でゴミを拾って生活をする人々、門番がいる高級住宅街、マニラの素晴らしい夜景、人権委員会、教育省の公務員の人々、朝早く道路掃除をする最低賃金で働く人々。一つの国をこんなに多方面から見たことはない。外国で、しかも短時間に凝縮した形で見てしまったせいであろうか、一つひとつの事象が確かに一つの国を形成しているにもかかわらず、それがきれいに結びつかない。それは今も変わらない。
だが今、私は、旅行者の目でフィリピンに感じた「?」を消化するためにフィリピンを知りたいと思う。知ってどうするかなんて考えてない。単純に知りたい。それはきっと日本という国を知ることでもあるし、その日本で暮らして「こうあるべき」という価値観の束縛にがんじがらめになっている自分を見つめ直すことでもあると思うから。