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路地の笑顔
助村栄(高知県立檮原高校教員)
ゴミの山なら日本にもありますが、ダンプカーから滑り落ちる都市ゴミに群がって暮らしをたてる「スモーキーバレー」の子どもはいません。ぼくたちが驚いたのは、視野一面の汚物の山で子どもたちが働いており、しかも連中いたって元気だったことではなかったでしょうか。
その昔、カメラを下げてモロッコのスラムを歩いたことがあります。東洋の金持ち国からやってきた遊び人たるぼくは、貧しい人々に向けてシャッターを切ることにためらいを覚えました。強い光をまなじりに受けた顔に恐れたことも事実ですが、プロでもないのに他人の困窮を覗くものではないという倫理が、ぼくのどこかに隠れています。阪神淡路大震災の後で現地を歩いた時にもカメラはカバンに入れたままでした。
ところが、巨大なゴミ捨て場のあるパヤタス地区「サンカップ託児所」周辺の人々はまるでちがいました。カメラを見せるとポーズをとる。こっちを写すとあっちがせがむ。売り場のおばさんははにかみ、空き地でバスケットボールに興じている少年は舞い上がる......強制立ち退きで与えられた居住区「約束の地」は、日本的な感覚でいえば、極度の貧困下にありますが、あの笑顔は何だろうと考えさせられました。
パヤタス地区の失業率70%というのは想像を絶する数字です。追い込まれた人々は「ゴミ収集、露天商、洗濯、トライシクルの運転手等、最低賃金に満たない生活を強いられ、平均家族6人に割り当てられた土地は56平方メートル、食事も満足にはとれない状態」。乾期には地中のゴミが熱をもって煙を吐くからスモーキーバレー。呼吸器系疾患も多いと聞きます。
そんな状況を日本の学校に置き換えれば、恐らく授業は成立しないでしょう。限界を超えた貧しさは、家庭の平穏を壊し、悪意を呼び覚まします。衣食住と就職が約束されて初めて生徒は努力するものですが、劣悪な環境の中で未来を描けず、志を奪われ、サブカルチャーに傾斜する子を説得するのは、なかなか骨がおれます。生徒が置かれた暮らしの構造を見て覚悟を決めるのが、ぼくら教師の習いです。
逆にいえば、充分な収入と両親の愛情を受けた子どもが大きく崩れることはまずありません。よくひきあいに出される東大生の家庭の高い平均年収は、心の安定と教育環境を支えるに足る数字と捉えることもできます。IQは平均分布しているのだから教育は、お金の勝負でもあるわけです。暮らしが安定し、実現可能な未来が見えてこそ人間は意欲を奮い立たせるわけで、解放闘争は衣食住を支える就業の公平を求めての闘争でもありました。
さる漁村に同和地区があり、構造からいえば、漁業不振による貧しさゆえに学校は荒れていました。生徒たちの刺々しい言葉と態度にやられて、とても授業が行える状態ではなかったそうですが、ある年からキンメダイが捕れはじめ、漁村は賑わい、とたんに生徒指導件数がガタ減りしたそうです。働くおやじが背中で教育できるようになったわけです。「教育はカネだ。おれらの力は弱い」という結論で同僚と意見が一致しました。
貧しいといってもパヤタス地区の子どもたちは普通の体格をしており、旅行者の目には、食うや食わずの餓死線上をさまよっているわけではないように映りました。どこの国でも子どもは明るいものですが、あの国の子どもは、与えられた環境の中で、むしろ日本の子どもより豊かな表情を見せていました。
絶え間なく他者との微妙な差異を見せられる日本の子どもは、いつも精神的な引け目を感じていなければなりません。第三者にとっては取るに足りないストレスが深刻な事件を誘発することもあります。豊かな国の悲しげな顔の若者とつきあわねばならないぼくにとって、いくらかバイアスのかかった感傷かもしれませんが、マニラのスラムで生まれ育った子どもたちの華やいだ笑顔は何だろうとしきりに気にかかりました。
そもそも貧困という言葉は、豊かさと比較して意味をもつわけですから、豊かな国の貧困概念で、スラムの子どもの心中まで推しはかるのは危険です。「ハイスクールに進むのは60%(フィリピンに中学はない)。そのうち60%が卒業前に学校を去り、カレッジに進むのは10%くらい」というスモーキーバレーの少年少女が、まともな教育を受けているとは思われませんが、逆に考えれば、過剰な教育に汚染されていないと捉えることもできます。
日本国の学校では、すべてがオートマチックに進み、いくらかの歩留りを残しながら、産業戦士が養成されてきました。そんな教育が行き着くところまで行き着いて13万人のさまよえる不登校生を生み出したのは、近代国家の宿命といえましょう。教育は権利だ。貧困は人権侵害だというもっともな議論もありますが、過剰な知の伝え手としてへとへとになっているぼくは、モノがあっても心まで豊かになるわけではないなと思います。笑顔は幸福の指標ですが、豊かな日本に笑顔が満ちているわけではないからです。
そんなことを考えているうちに笑顔の秘密は、路地にあるのではないかと考えました。
スモーキーバレーの路地にはプライバシーを確保する空間は見当たりませんでしたが、どこに行っても友達がいるから子どもたちは肌を触れ合って遊び、わずかな空き地を利用してバスケットボールに興じていました。路地から見え隠れする室内は想像を絶するほど狭く、子だくさんの家族はどうやって寝るのだろうと心配になりましたが、もともと人は肌をよせあって寝るものだから、むしろ窮屈な方が安心するのかもしれません。隅々まで秩序が満ちた日本の目で、あえてスラムの美徳を探せば、偏差値に脅かされつつ個室に閉じこもってゲームとケイタイに熱中する心配がないことかなとも......
彼らの生活空間は、一見狭そうに見えますが、路地ではしゃぐ子どもの姿を見ていますと、都市の住宅地よりスラムの方が広いのではないかと思いました。都会のマンションで個室を占有するより、軒先に腰掛けて路地を眺めたり、友達と走り回ったりする方が、広々とした空間を確保できます。家は小さくても共有地があるから実動面積は何倍にもなります。中央道路は広場でもあり、車が入れない路地は親密感を生むほどよい狭さをもっています。マニラ特有の大振りの樹木が暮らしに潤いを与え、老人にとっては子どもの声が聞こえる幸福を満喫できます。長屋の知恵です。
そんな話を大阪の友人としていたら「日本だって貧しい家庭はあるぜ」と国内の現実に引き戻してくれました。そのむかし都会で新聞配達をしていた頃、入り組んだ路地裏の長屋で見た老人の背中を思い出しました。化粧を落とした都会の舞台裏も凄いものです。ただ、フィリピンのスラムにあって、日本の長屋にないのは、子どもの笑顔ではないかと思いました。
地域社会が機能していない日本の都市のアパート住まいと、貧しさもここまで来るといっそ清々しいスモーキーバレーの暮らしでは、幸福の尺度に本質的なちがいがありそうです。樹間をわたる風のそよぎも、人のぬくもりも失ってテレビの前で気晴らししている日本の老人が、スモーキーバレーの人々より幸せかどうかは、にわかに判断できません。どんな土地にも不幸があれば幸福もあります。自国の価値で異国の風景を判断するのは危険です。(
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