ヒューライツ大阪は
国際人権情報の
交流ハブをめざします
フィリピン・スタディツアーを終えて
前川 仁三夫(とんだばやし国際交流協会)
フィリピンから帰ると2週間はボーとしていると、誰かに聞いたけれど、いまだに頭の半分ほどが、まだその状態のような気がする。帰国してから届いた高等学校の生徒たちの手紙は心に響くものがあって、かれらが日本をどんな風に見ているのか良くわかる。それは日本社会の問題で、私の問題でもある。いまだに未消化のままだけれど、私にとって意義ある旅だった。人権は守られるべきもので、あるがままであるかのように理解していたが、そうではなくて作り上げていくものなんだと考えるようになった。
7月31日(水)人権委員会
ケソンビン委員長ほか全員の委員が出席してくださったのには感激した。人権委員会の設置が憲法で決められた事は事前学習で聞いていたが、マルコスの戒厳令時代の経験が自分たちの事としてあるからだろう。振り返ってみれば日本でも敗戦を教訓に憲法第9条を制定したが、敗戦後50余年を過ぎ、経験を忘れてしまったかのようだ。戦争はしたくないんだ、人を殺したくないんだというのは私の権利なんだと強く思うようになった。
自分が語るだけでなく質問もする、それも若い人にする態度は人権教育の態度なんだろうなと思った。ここに限らず、お茶とお菓子もよく出ますね。リラックスできていいですよね。(ガイドのとも子さんに聞くと、フィリピンでは借金しても接待するらしい)
「国内人権機関に関する原則」(パリ原則)のことも知らずに恥ずかしい事だった。日本政府には人権委員会もなく「アジア・太平洋国内人権機関フォーラム」に参加していないなんて、人権後進国なんだな日本は。
7月31日(水)パキサマ(全国農民組合連盟)
いちばんショックだったのは人権委員会が地域で推進する「バランガイ人権行動センター」の活動を知らないと言われたときだった。
包括的農地改革について十分理解できなかった。すごく硬い印象を受けた。
7月31日(水)COマルティバーシティ
年季の入った組織だなと感じた。話してくださった皆さん気合が入っていたな。海外のNGOとの関係も深い。日本のホームレスの立ち退きを「強制立ち退き」だと言われ、目が覚めた。
8月1日(木)サリガン(オルタナティブ法律支援センター)
印象的だったのはパラリーガル(はだしの法律家)を育成している事だった。1年間の研修プログラムが4段階にわたって準備されている。こういうプログラムは日本では少ないのではないか。法律を自分たちのものとして、自分たちの力として使う事が人権なんだと納得。先日あるところで「法の支配」という言葉を聞いたが、このサリガンの活躍はそれを実現しようとしていると思える。
8月1日(木)サンバ(アンティポロ山地小農連盟)
ここへ来てはじめてパキサマのことが少し理解できた。農地改革法はあっても、なかなか改革が進まない中、トレーニングを積み、裁判を担い、パラリーガルとして活躍していることが感じ取られた。人柄の良い人たちばかりだった。
8月2日(金)教育省
人権委員会でも感じたが、ここでも女性の活躍が目立った。
人権教育は憲法や大統領令、そして省令で促進されている。教科のなかに人権を統合するという作業がなされているのは素晴らしいと思う。
8月2日(金)ネパタリAゴンザレス高等学校
生徒たちのワークの発表がそれぞれ面白かった。とくにラップで人権問題を表現したのにはまいった。ここでは英語ができない自分が残念。
8月3日(土)「サンカップ・デイケア・センター」(サンカップ託児所)
ケソン市から強制立ち退きで移転してきた人々が住む。パヤタスには2万人が住み、70%が失業しており、ごみ収集で生計を立てるほかすべがない。ごみの山を歩いてみて、悪臭もすごいが、目に見えない化学汚染や環境ホルモンの影響は計り知れないだろう。ここで生きるしかないことを、どう受け止めてよいか分からない。そこには託児所があり、学校があり、外のバスケットコートでは若者が楽しんでいた。どこでもそうだったが特に、ここでは生への強い欲求を感じた。
8月3日(土)「タカッド」(堤防建設に反対するタギグ住民連合)
ラグナ湖にボートで出るとは思っていなかったのでびっくりした。トライシクルに5人も乗って訪ねたバランガイ・ホールはわれわれの訪問を心待ちにした人々でいっぱい。話を聞くと、この洪水制御事業の内容が十分に住民に伝わっていないことがわかる。フィリピン政府の責任もあるが、日本政府の責任も大きい。本当に地域住民のためになるのか、工事を受注している日本の建設会社などにとって美味い話だけではないのか。住民の不信感をまず、ぬぐうのが先決ではないかと思う。