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国境を超えるピカチュー
田間泰子 (大阪府立大学女性学研究センター主任)
ピカチューは、たやすく国境を越える。ドラえもんやキティちゃんとともに国境を越え、思わぬところで、旅先の私たちに笑いかけてくる。
ピカチューに出会ったのは、トゥレバンのパク・スミさんに案内してもらった基地村の店頭だ。基地村には大きな通りが2つあったが、もう、ほとんどの店が閉店してしまっていた。基地の移転にともなって、さびれていく大通り。そんななか、ガラス張りのカラフルな店頭があって、覗いてみると、毛布に描かれた大きなピカチューがあざやかな黄色のからだで元気いっぱいに笑いかけていた。
ピカチューは、日本が世界に誇る輸出産業品、つまり、ジャパニメーションの有名キャラのひとつである。しかし、私にとっては、十数年前、子どもを保育園から連れて帰る毎夕に、ひたすら子どもと一緒に歌ったアニメのキャラ。夏休みには(今でも、おそらく多くのお母さんたちが)連れて行かされた「夏休み大作アニメ」の主人公。そう、ピカチューは子どもたちに愛される。
さびれた基地村の毛布のなかのピカチューは、この村に子どもがいること、その子どもを喜ばそうとしてピカチュー毛布を買う親がいるだろうこと(あるいは、かつてはいたこと)を私に教える。
その隣の大通りには、『クラブ パパサン』があった。基地の「パパサン」たちはお金をもっていて、おまけに時々子どもの「パパサン」にもなってしまう。在日米軍基地の周辺地域で用いられた日本語「パパサン」が、米軍によって世界中に輸出される。その隣でピカチューは、日本の経済力に支えられて輸出される。
キャラクター商品は高価だ。ピカチュー毛布は、お金を握っているパパサンが子どもに買ってやったのだろうか? それとも、お母さんが一生懸命稼いで買ったのだろうか? 軍事がもたらす繁栄は、多くの犠牲のうえになりたっていて、それは朝鮮戦争を踏み台にして経済復興に向かった日本が示すところである。ピカチューが愛されるキャラであることも、その日本資本がつくりあげた幻想だ。とはいえ、ピカチュー毛布をもらった子どもは、少しはピカチューから元気をもらえただろうか。そんなことでは、何の役にも立たなかっただろうか。それとも誰も買ってくれなかったか。
資本と軍事は、国境を越える。否、むしろ越えることこそが、資本と軍事の要である。それにともない、人も国境を越える。移住女性の問題は、日々24時間進行中のグローバリゼーションの政治のなかで生じているが、その渦中には移住女性たちや子どもたち、つまりひとりひとりの人間が生きている。私より先に国境を越えて韓国に来ていたピカチュー毛布は、そこに生身の人間がいて、憎しみや悲しみとともに愛や喜びを感じながら生きていることを、教える。
圧倒的な状況の違いを想像力と謙虚さで補いながら、人としてどこかでつながっていきたい。資本力に守られたピカチューのように国境を越えて子どもを抱きしめることはできなくても、人権を守るために何かできることをみつけよう。細い細い糸をつむぐように。