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インドで考えたこと

初瀬龍平

  わずか1週間、ニューデリーとアーメダバードを垣間見ただけで、インド全体を語れないことは、いうまでもない。しかし、この1週間の体験は、結構、いろいろと考える素材を与えてくれた。全体的にいえば、断片的な体験は、私のなかでバラバラとして未整理のままでいるが、この小論では、少しでもまとめて考えてみたい。
  1950年代に、インドの中立外交は、戦後冷戦のなかで国際政治の世界で新しい花形であった。インドは1947年に独立し、中国では、1949年に共産党政権が成立した。この北京政府を最初に承認したのは、ネルー首相のインド政府であった。インドと中国は、1954年に平和5原則を樹立して、その後の数年間、国際政治を引っ張る形となった。しかし、その後、内外の展開は、当時の私の期待に反するものとなった。1959年に中印国境紛争が起こった。1960年代からは、中国では文化大革命と対外的混乱の時期に入り、インドは経済的に保護主義を採り、むしろ国内向きとなった。インド人に会うと、インドは社会主義であるとか、民主主義であるとか、よく聞かせられるのだが、カースト社会で社会主義はありうるのか。また、民主主義については、総選挙による政権交代という意味では、理解できるが、カースト社会で人々の平等とか人権の理念は、行き渡れるのか。端的にいえば、カースト社会と社会主義、あるいは民主主義は、どのように両立するのか。私には、このような根本的疑問がある。
  今回の印象では、インド社会は、全体として一つの巨大なジグゾーパズルを形成しており、個々のピースは似ていても、それぞれが独特の形をしており、相互に微妙に入り組み、はめ込まれているようである。それは、11億人の精巧なジグゾーパズルとなっている。しかし、ピースの個々の微妙な差を無視すれば、強引にピースをはめ込めるし、あるいは巨大な全体のジグゾーパズルのなかに、いくつかのサブ・ジグゾーパズルを作ることもできよう。微妙な差を精巧に積み上げた全体としてあるのは、カースト社会の心理と構造である。この社会の強靭な基底は、何千年にもわたって永続しているものであり、多少の近代化によっては、微動はしても、大きくゆらぐことはないのであろう。サブ・ジグゾーパズルでイメージするのは、Nari Raksha Samitiの活動であり、SEWAの活動である。このように、カースト社会のなかにも、人権思想、人権活動の余地は少なからず残っている。それと同時に、人権思想・活動が、カースト社会の基盤を全体的に揺るがすことはないのかもしれない。他方で、ジグゾーパズルのピースの個々の差を無視する方に目を向ければ、インドにはまり込む日本人が出てくることも、理解できる。そのなかで自由に生きられるからである。
  インドは、亜大陸であり、多様なエスニシティ、宗教、文化、生活習慣が混ざり合った世界である。このことは、本を読んで知ることができても、百聞は一見に如かず、でもある。アルンダティ・ロイ著『帝国を壊すために』(岩波新書)を引用すると、2002年2~3月に「グジャラート中で暴徒と化した人の数は数千にも及ぶ。彼らは火炎瓶、銃、ナイフ、剣、三叉などで武装していた。そこにはVHP[世界ヒンドゥ協会]やバジュラング・ダル[VHPの下部組織で、若者の武闘団体]のいつもの乱暴なならず者とは別に、バスやトラックで運ばれてきたダリット[不可蝕民]とアーディヴァシー[先住民]の人々もいた。略奪に参加した者には中産階級さえいたのだ。それはまさに、ムスリムの人々の生活基盤を、徹底して組織的に破壊する試みであった」(66-67頁)。このとき、ムスリムの犠牲者は、1千人とも、2千人ともいわれる。州政府は、この虐殺を黙認していた、といわれる。中央政府の人権委員会は、州政府の処置、態度を公けに問題としている。
  なぜ、宗教的マイノリティが虐殺されるのか。グジャラートで見えたのは、宗教対立の基盤に、社会の底辺にはめ込まれているダリット、アーディヴァシーと、その直近上位で生きるムスリムの対立関係があることであった。このように、対立の一部は社会構造に根ざしている。この対立を煽っているのが、ヒンドゥー原理主義者であり、極右のインド人民党(BJP)である。ムスリムはインド内でマイノリティであっても、その数は1億人に達する。1億人を抹殺しようとするのか。7月30日の夕方、大雨のアーメダバードで、SEWAの共同内職工房の場で、この地域でムスリムが殺されたと聞いたが、この地域がその場所を指すのか、あるいはアーメダバード市内のどこを指すのかは、私には、問い直すことができなかった。
  A.ロイ(The Ordinary Person's Guide to Empire, p.136)によれば、「なんでグジャラートーガンジーのグジャラートでー」となる。非暴力主義のガンジーの活動拠点は、アーメダバードにあった。それが、7月31日の午前に見学したサバルマティのアシュラムである。ガンジーは、グジャラート語を話した。文字は、ヒンドゥー語とまったく違ったものであることは、私たちが実見した通りである。1930年の「塩の行進」はこのアシュラムから出発した。ここで、私たちは、暴力の跋扈する世界(暴力は支配者英国に限定されず、社会全般に行き渡っている)で、非暴力主義の思想と実践が生まれたことを知ることになる。インド世界は、極度の抽象化を生み出す。位取りのところに「0」という数字を当てはめることを考え出したのは、インド人であった。根菜類も、根を抜くと、虫が死ぬといって、食べないという極端な菜食主義者が生きている。あるいは、その反対に、とことん社会規範を否定して、カンニバリズムにまで至る者がいる。アーメダバードで、私には、ガンジーの非暴力主義は、暴力の跋扈する世界でこそ、逆に徹底的に抽象化された思想と実践に見えてきた。
  今回、私がグジャラートにこだわったのは、かつて当地が東のベンガールと並んで、有史以来有数の木綿・綿製品の生産地であったからである。英国が産業革命に成功したのは、インドからの輸入綿製品が英国の繊維産業を崩壊させ、そのために輸入代替化に取り組まなければならなかったからである。マルクスが、ベンガールの土地に職布工の白骨が累々とする、と書いたのは、英国が形成を逆転させて以降のことであった。グジャラートの木綿工業は、有史以来の優位から、英国の機械製品に押され、つぶされてしまった。その後は、どうなったのか。グジャラートはインドのマンチェスターに復帰した。英国とは、競争できなくとも、アジアでは優位を取り戻せた。ガンジーのアシュラムという共同生活体を支援したのは、グジャラートの紡績業者であった。このことの意味が分かったのは、帰国後のことである。
  アーメダバードのキャリコ博物館では、入館を拒否されてしまった。守衛は、まったく威張っており、断固拒否の態度を譲らなかった。博物館を見学できなかったのは、残念であるが、私は、そこにグジャラートあるいはインド社会にある暴力構造を見たような気がした。人間が押し合い、せめぎ合い、そのなかでジグゾーパズルの一片は、精一杯に自己主張をしているのであろう。その自己主張がときには、虐殺に走らせるのかもしれない。
  最後に、アーメダバードのCama Park Plaza Hotelは、私からみて、最高に素晴らしいホテルであった。落ち着いたロビーと食堂、きれいな芝生、部屋の大理石の床というように、文句なく上等のホテルであった。しかし、同行者の他の方々は「シャワーが出ない」「雨漏りがする」「ひどいホテルだ」と、散々の評価をしていた。たった一つのホテルのことでも、これだけの差が出てくるのは、驚きである。ホテルの部屋の窓からみると、サブルマット川の河川敷にスラムが延々と続いていた。このような対比は、どのようにインドを細かく切っても、みられるものかもしれない。インド全体を語ることなど、そもそも無謀なのであるが、ある意味で社会の各微小部分に全体が反映して、見えるように思える。