はじめに
今回参加する目的の第一は、「貧困女性のエンパワーメントと地域社会」の実情を現地で視察、活動する人々から直接その成果を確かめることである。カースト制が根深く残る中で、女性問題を通してインドの人権尊重の活動事例を見学する。そのためには男性に比べて教育を受ける権利が著しく侵害されている貧困女性への教育はどのように改善されているのかを考えたい。ということである。
第二に、インドの人々の生活実態を見たいということである。人口は10億人を突破。カースト制、ヒンドゥー教。私にとって書物など間接的にしか知らない国。「実際にこの目で見たい、現地の人々と話をしたい。」3000年もの長い間、人々の心の奥底まで浸透してきたカースト制社会、ヒンドゥー教が、近代的な政治制度や法律をもつインドでどのような関連があるのか。その精神的な基盤の上に実際にはどんな生活を送っているのか、日本に対する考えはどうかなどさまざまなテーマが浮かんできた。短い期間であるし、限られた人との交流にしか過ぎないが是非教科指導や教材作成に生かせないかという思いであった。
訪問地での感想・報告
1.デリー
人口約1000万に達しようとするインド第3の都市で、インドの首都。政治経済の中心で2000年以上の歴史をもつオールドデリーとイギリス植民地時代に建設されたニューデリーとに分かれる。
新興工業国の首都にふさわしく近代的な機能をそろえ、活気に溢れる。特にニューデリーではオートリキシャの天然ガス化が行われ、他の都市のような排気ガスが充満する大気汚染は解消されている。一方、オールドデリーではまだリキシャが活躍し、細い路地まで客を乗せる。どちらの街も自動車・オートバイの交通量は道からあふれんばかりだ。雑然としているようだが、しばらくするとインド独特の秩序が保たれていることに気づいてくる。クラクションを鳴らすのは、インドでは近づいてくる車両を止めさせる、あるいはよけさせるためであるが、どちらかが必ずスピードを緩める。一瞬でどちらが優先かが決まるように見える。カーストの違いが直感的にその上下を悟るのか。と思えるくらいにはっきりしている。(あくまでも私の印象による)
喧騒の中、クラクションの合奏がかえって人間の息吹を感じほっとする。車に乗っている人が丸見えでどんな生活をしているかを想像できるからかもしれない。日本ではただ沈黙のまま、黒いフィルムを貼って走っている車は、無人のロボットが走らせているように見える。
(1) 連邦人権委員会
活動概要について説明を受けた後、特に女性の権利についての現状報告と課題について討議を行う。インドの憲法では女性の権利が平等に認められているにもかかわらず、さまざまな場面で権利が制限されている。この委員会では特に結婚する際の持参金問題にかかわるトラブルについての申し立てについて象徴される人権侵害についての擁護、女性の教育を受ける権利の侵害についての活動報告があった。これらの具体的事例を各団体・施設訪問により現状を見る。
(2) 女性刑務所
女性だけの刑務所だが、男性の刑務所に併設されている。一番の問題点はまだ刑が確定していない裁判前の女性も収監されている点である。確かに刑務所内の女性は純白のサリーを着、刑が確定していない女性は色を自由に選べる。罪状は結婚相手やその家族との持参金問題で25%、25%は麻薬、50%が殺人・窃盗となっているがそのうちの8%は売春にかかわる犯罪。もちろん外国人もいる。
(3) オールドデリーの売春街での女性支援と移動薬局
GBロードと呼ばれる売春街には1000人もの売春を仕事としている女性が住んでいる。インドの憲法・法律ではもちろん売春行為は禁じている。しかし、実態として生活をしている彼女達の生活や健康を最低限守らなければならない。
一軒の売春宿に入る。元警察幹部と現役警察官等の案内で各部屋を見学し、そこで働くさまざまな人と会う。特に彼女たちの世話をする女性やその子どもたちが住み込みで働いており、女性たちがなぜこの売春街に来ざるを得なかったかなどを質問する。
やはり、社会の中で女性の人権が著しく侵害される場面が多い。特に若くして結婚することが多い中、嫁ぎ先での人間としての基本的人権が確立されてなく、何らかのトラブルが生じるとその不利益は一方的に女性にこうむってしまう。例えば離婚した女性は社会から完全に除外される。女性からは離婚を申し入れることはできないし、そんなことをすれば女性が社会で自立することはできなくなる。愛情があるなしにかかわらず人間であるために離婚することができない。その背景には、民法上、女性の権利が著しく侵害されている。まず財産(土地を含め)の所有権がない。したがって相続権がない。そのため結婚時には父親同士の持参金に関しての交渉(相談)がなされ結婚が成立する。結婚後その額や追加の持参金要求で女性が追い詰められてしまう。憲法違反にもかかわらず、州ごとで民法が異なるインドでは実際には違憲立法審査の道は厳しい。
実生活にかかわることは宗教的慣習や掟が優先する。近代的法律はあくまでも西洋から導入された人の作ったもの、神の掟とは次元の違うものだといわんばかりである。
しかし、このような女性たちのエンパワーメントを力強く支援するNGOのメンバーも女性たちである。
G.B.Roadの移動薬局はこの売春を仕事としている人たちをはじめ、この付近のスラム街に住む人々に薬を無償で提供し、健康相談にのっている。
(4) インド社会研究所
さまざまなテーマに取り組んでいる。特に女性問題について各NGOの活動を支援する。無料法律相談を行うことや、著しく制限されている女性の権利について連邦や各州、裁判所に要望を出す活動等も行う。解決方法は教育水準の向上、そして人口抑制だと主張する。
(5) デリー史跡等見学
ムガール帝国時代の宮殿ラールキラー・イスラム教寺院とアラブ街などを見学。
(6) オールドデリー小中学校訪問
学校改築のため、仮校舎で学習する教室を訪問する。同じインド人であってもさまざまな人種・民族の混ざった学校であった。男子と女子は別に授業を受けている。訪問したのは女子教室の仮校舎である。インドではどこでもそうであったが大人も子どももデジタルカメラに大喜びする。写した後、画面を見て大歓声。いくつかの教室に入り、話をしたり、写真を撮ったりしたが、入ってない教室の子どもたちと担任の先生から是非来てほしいとの要求があり、うれしい悲鳴。おかげで校長先生との話しが出来ずに終わる。
2 アーメダバード
(1) 女性自営者協会(SEWA)
女性のみで商売ができない状況を制度的にも経済的にNGOが支援。資金融資や店子権利・仕入れでの不利益回避等の支援を行う。VTRでもその活動内容を紹介している。
(2) 市内スラム地域での住宅建設や環境整備・職業訓練の実態視察と現地の人との交流
雨の降りしきる中、環境整備と生活支援を行っているNGOのメンバーとともに現地へ
雨季に入って気温はそれほどでもないが蒸し暑い雨の中、スラム地域での具体的活動を見学。さまざまな言語を話す住民、もちろん文字の読み書きができない住民が多い中、簡単なイラストで描かれたポスターを掲示している。州政府や市行政と協力して地域改善の取り組みはまだまだ、全ての環境が劣悪な地域には及ばないが、このモデル地域の活動を拡大していきたいという。
(3) 市内視察・観光
ジャイナ教寺院・ガンジー関連の資料館等を見学。インドも経済発展途中で一部の富裕層では旅行ブームである。市内で見る人々とは別世界の優雅な旅行者とあちらこちらで出会う。デリーとは違ってまず日本人観光客とは出会わない。一人でぶらぶら歩いていても多数の人々から注目を浴びる。しかし、インドでは大きな工業都市ということもあって貧しいながらも生活は安定している。危険な雰囲気はまったく感じない。
感想
初めてのインド。人口10億人を超え、西ヨーロッパにも匹敵する広さの中で、約1週間しかもたった2都市の訪問で何がわかるのかという気持ちもあるが、私にとってのインド学習のスタートと思い、訪問後、ますます奥に踏み入れたい国となった。
昨年のカンボジア訪問は教育関係主体で「すべての人に教育を」というテーマのもと、その国の近代化や民主化はそこにすむ人々自身が進めていくことが大切で、そのために教育が大切であるということを実感するスタディツアーであった。
各地各団体でお会いする活動家はいろんな意味で豊かであり、堂々と討議を行う女性のメンバー中心でした。スタディツアーの参加者も事務局以外は数名で多くは女性であり、これからの人権教育は女性の立場から見ること、女性の力を十分生かすことを、身をもって実感した。
アジアを訪問すると、いつも近代化ということはどういうことなのかという問いにぶつかってしまう。日本の場合、欧米化であり工業化であった。インド10億人がこのまま近代化を果たし、自由主義、資本主義化により大量生産・大量消費するとどうなるのか。はたしてどういう国にしていきたいのか。民主化・資本主義化とは、もてるもの・もてるようになったものによる経済の解放であった。経済システムが近代化されると、それによるさまざまな法令が雨後の筍のように制定され、政治と経済が一体化する。逆に経済の解放は人権を侵害してしまう時がある。近代化がすすむとかえって人権侵害は実生活の中に入り込んでしまう。インドの1990年代の経済の近代化はこのような危険をはらんでいる。
しかし、自分たちの国づくりを決定するのはその国に住む人であり、それを考えるための教育が大切であるということは各訪問地での共通していた。
私はこれからのインドにはやはり経済改革に基盤をおく教育改革が必要であると考える。経済改革は1990年代に成功をおさめ、BRICSと呼ばれる、経済成長を成し遂げている国のひとつに数えられるようになった。経済の近代化・自由化の準備が整ったということである。あとは税制と税金の適切な使い方が問題だ。税制改革により徹底した所得の再分配(高所得者からの徹底徴税)を行い、低所得層から有効需要を創出するような、つまり消費の底上げが必要である。そしてあらゆる生活必需品の生産を自国内で行い、所得として人々に還元される。次の段階の有効需要を創出するサイクルが必要である。現在の経済改革と同時に、インド10億人経済の自国完結を目指す税制の改革、そして人口抑制政策が必要である。
この経済の循環が低所得層の教育に対する熱意と経済力を生むのではないか。所得の再分配は、法的に差別をうけている人たちに支出され、富が社会に還元されていく。でないと今の経済成長は一部の人たちにしか恩恵が行き渡らない。所得の増加が教育費支出増加につながり、有能な労働者として社会に排出される。
インドでは宗教上の教えが人々のあらゆる生活での基盤となっており、憲法や民法をも無力化してしまう力を持っているように思える。民法より宗教上のおきてや慣習が優先する場合があるのか。
私はインドにおいて仏教はヒンドゥー教批判をおこない、仏の下では平等であると真っ向から対立するものだと思っていた。しかし、現代では、インド人の中には、仏教やジャイナ教をヒンドゥー教の一派だとしてヒンドゥー教の中に含んでとらえている人も多いようだ。
一方、イスラム教は異教である。したがって宗教的対立は戦争や暴動、迫害に発展する。また、人権尊重の精神は上位カーストの人も十分理解している。だから、今回訪問した各団体や組織の活動家はボランティアで私財をなげうって人々に尽くす。高等教育を受け、英語を流暢に話し、人権感覚も経験も豊富である。しかし、カースト制の問題点に触れても、また、カースト制が人権尊重を阻んでいることに気づいているのかわからない時がある。聞き流し、あるいは聞いていないのか、通り過ぎているようにさえ思える。カースト制存在・ヒンドゥー教の教義を前提に、いかに困った人、苦しんでいる人を助けるかを考える。これがヒンドゥーの教えなのであろうか、というのが私の印象であった。これはたとえ人間が作った教義とはいえ、3000年もの間人々を導く教えとなってきた重みである。人間の作った最近の法律よりも神の示した法が優先するように見える。
やはり、これから人間が人間らしく生きていく社会をインドでつくるためには、時間はかかっても教育の力、識字教育が原動力となる。そして自分たち自らが人権とは何かを考える力を身につけるまさに「エンパワーメント」が必要ではないか。