国連人権高等弁務官の活動の全容については、本書第1部アルストン論文で詳しく分析された。ここでは、1996年の国連人権高等 弁務官/国連人権センターの活動について概観する(A/51/36)。なお、1997年2月に初代の国連人権高等弁務官のアヤララッソ氏が本国エクアドル の外務大臣就任のため退任することが表明されている。
・各国政府
1995年度の国連総会(第50会期)以来、国連人権高等弁務官はボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、ユーゴスラビア連邦、ガボン、インドネシア、 チュニジアを公式訪問した。また、1996年12月にはルワンダを訪問している。
・インドネシアおよび東ティモール
インドネシアおよび東ティモールには、1995年の12月3日~7日に訪れており、スハルト大統領以下政府の各省大臣と面会したほか、NGO関係者や シャナナ・グスマオン(拘禁中の独立運動指導者)にも面会している。高等弁務官はインドネシア政府に対して・「反破壊活動法」の廃止、・インドネシア人の 東ティモールへの入植の中止、・ディリでの事件(1991年の虐殺)に関して意見を述べたために刑を宣告された人々への温情的な措置などを求めた。
なお、インドネシア政府と国連人権高等弁務官/国連人権センターとの間に「取決め事項」の確認が行われ、そのなかでインドネシアの国連事務所の中に人権 担当官の配置を行うこととなった(E/CN.4/1996/112)。
・国際機関
国連人権高等弁務官/国連人権センターとユニセフとの間に子ども権利条約委員会の支援に関する取決めが結ばれた。
国連開発計画(UNDP)は、発展途上国のガバナンス能力の強化に力を入れており、そのなかで民主的な制度、司法システムなどの発展のための援助を提供 しているが、これらのなかで人権に関連がある支援プロジェクトについては国連人権高等弁務官/国連人権センターとの協力関係をもって行われている。
世界保健機構(WHO)は現在、保健安全保障(health security)という考え方のもとで、保健医療について人権の視点から取組みを始めており、社会権規約第12条(身体および精神の健康を享受する権 利)の監視のために「保健安全保障への権利」という概念を活用する方法について、検討を開始している。WHO内では、人権についての行動計画も策定されて おり、実施を待つ段階にある。
・地域機関
国連人権高等弁務官/国連人権センターとヨーロッパ委員会(European Commission)は、ルワンダ、ブルンジ、コロンビアでの活動に関連して協力関係をもっている。ヨーロッパ委員会はルワンダの国連人権現地活動に 31名の人員を派遣したほか、国連人権高等弁務官のブルンジでの活動への支援を約束した。
・その他の関係団体との協力関係
高等弁務官/センターはストラスブルグ国際人権協会、アンデス法律家協会(ペルー)との総合的な協力関係のための協定を結んだ。民主主義と人権のための ノルウェー資源バンクとも協定を結び、人権高等弁務官の現地での人権活動への非常時用支援提供の約束を得た。
・人権のための技術協力と助言サービス
人権センターの重要な活動に、「技術協力と助言サービス」がある。これは1955年から始まったもので、人権を守るための法的整備、研修、人権教育、憲 法作成・改訂支援、NGOや市民社会の強化などがこの枠組みで行われている(E/CN.4/1996/90)。
「人権分野における技術協力のための自発的基金」の設立が1987年に決められ、それ以後、1995年12月31日までに18,930,000ドルの寄 付がされた6) 。この79%はヨーロッパ諸国からのもので、米国が6.5%、日本は4.5%を占めるのみである。基金 の運営のために理事会が設置されており、日本の武者小路公秀氏が理事メンバーとなっている。
なお、1995年中には、50の国から技術協力の要請が寄せられている。
・現地活動
ブルンジに35名の人権オブザーバーを配置するという計画は財政的制約から頓挫するところだったが、ヨーロッパ委員会の寄付により1996年4月19日 から5名のスタッフを配置した現地事務所の設置が可能となった(1996年7月にさらに寄付を得て4名を追加)。
ルワンダでは大規模な活動が取り組まれており、11の県すべてに国連人権事務所が置かれている。ザイールには1996年12月10日に国連人権事務所が 開所し、2名の専門家が配置された。グルジアにも、1996年12月11日に人権事務所が開設されている。
ほかにも人権監視・技術協力のための現地事務所が、マラウイ、コロンビア(1997年初頭開設予定)、モンゴルなどに設置されるか、もしくは設置の検討 が行われている。
カンボジアには、1994年から人権活動のための国連事務所が設置されている。1996年2月、人権高等弁務官はカンボジアを訪れ、今後さらに2年間人 権分野における技術協力活動を行うという協定を外務大臣と結んだ。カンボジアの人権センター事務所は、プノンペンの本部のほか、シエムレアプ、バタムバ ン、コンポンチャムにもある。今回の協定により今後も人権教育、研修などの分野での協力活動を継続することとなった。協力の対象は、学校、司法、警察、 NGOなど広範なものとなっている。
1996年の国連人権委員会では、発展の権利に関する決議がはじめて全会一致にて採択された(人権委員会決議1996/15)。やっと「発展の権利」を 実施する前提条件が生まれつつあるのかもしれない。
国連人権高等弁務官は、1995年から世界銀行との接触を始め、1996年も7月24日~25日にかけて会合をもった。「発展の権利」も議題のひとつで ある。また、「持続可能な発展」の文脈で、共同のプロジェクトを行う可能性を追求することも狙いにあった。今後の情報交換、民主化移行支援に際しての情報 交換と相互協力、人権現地事務所への支援、ガバナンス能力強化と人権伸長、人権教育などについて議論された。
・国連人権センターの機構改革
国連人権センターの改革のための検討作業は1995年から始まっていたが、その結果、9月30日より機構改革が実施された(図1参照)7)。従来は5部に分かれていた事業関連部が3部に統合された。新しい部は、・調査および発展の権利部、・ 支援サービス部、・活動・計画部である。
調査および発展の権利部においては、発展の権利に関する調査研究、人権一般に関する調査、基準策定に従事する機関への支援、情報サービスの運営などに従 事する。
支援サービス部は、人権委員会等などの会議開催の準備と実施を行い、活動・計画部は技術協力の提供、研修コースの開催、調査活動の準備、人権教育の10 年の実施、特別報告者などへの支援提供を行う。
・財 政
国連全体の財政危機のなかで、人権高等弁務官/国連人権センターの財政状況は厳しい。1996年の2月には承認済みの1996~1997年度予算8)から6%の削減を強いられている。また、スタッフについても、欠員率6.4%であるのが、据え置きのま まにされている。
苦境を乗り切るため、国連の人権活動は寄付に頼るようになっている。このために、さまざまな自発的基金が作られている。人権保護・伸長のための現地活動 のためにも、「技術的協力に関する自発的基金」以外に、高等弁務官/人権センター活動支援自発的基金の一部として「人権現地活動に関する自発的基金」が設 置され、すでに寄付もされている。
1998年は世界人権宣言の50周年であり、ウィーン会議から5年後の中間評価を行う年でもある。国連人権高等弁務官は、この年を「人権年」と呼び、 キャンペーンを行うことを1996年の国連総会第3委員会で提案した9)。
ウィーン会議の決議では、すべての国家および国際連合システム内のすべての人権関連機関が、この会議の最終文書の実施についての進捗状況を事務総長に報 告するよう求めるとともに、それにもとづき事務総長が、人権委員会および経済社会理事会を経由し、総会第53会期に報告書を提出することを求めている。ま た、この際「国内人権機構、ならびに非政府機関は、この会議の最終文書の実施面でなされた進展に関して」国連事務総長に意見を述べることができる10)。
国連人権委員会は、国連人権高等弁務官に「世界人権宣言50周年」の活動の調整を行うよう1996年の第52会期の決議(1996/42)で求めてい る。国連人権高等弁務官は、これを受け、1997年から1998年にかけて準備のために専門家、地域機関、非政府機関などと一連の会合をもつことを計画している。
人権教育のための国連10年は、1994年の総会決議で開始が決定された。また、同時に国連事務総長による行動計画(A/49/261/Add.1-E /1994/110/Add.1)も出された。同10年の総括は国連人権高等弁務官の業務とされている。人権高等弁務官は、同10年について1996年の 国連人権委員会にも報告(E/CN.4/1996/51)を提出し、第51会期の国連総会にも報告の提出を行った(A/51/506)。
人権高等弁務官は、1995年の10月、同10年についてユネスコと協定を結び、情報交換や相互協力を行っている。ユネスコは、「平和の文化」のための キャンペーンの一環として人権教育を取り上げており、その文脈で人権教育のための国連10年にも協力している11)。また、NGOと協力し、国連人権教育関連の活動の後援などもしている。
高等弁務官は各国に対しては、同10年を推進するための国内委員会(Focal Point)を設置するように呼びかけており、これに応えるかたちで10カ国(アジア・太平洋地域で高等弁務官の報告書に掲載されているのは日本のみ)が 国内の組織を作った。
(文:川村 暁雄)